グイノ・ジェラール神父の説教




年間の主日

第23主日から
 

王であるキリストまで



年間第23主日
年間第24主日(十字架の称賛

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年間第33主日

王であるキリスト


             年間第23主日A年      201497日   グイノ・ジェラール神父

                   エゼキエル33,7-9 ローマ13,8-10   マタイ18,15-20

    神によって見張りを置かれた預言者エゼキエルは、イスラエルの民の安全と未来の責任を持っているのです。 エゼキエルは何とかして神の民を危険から守るべき使命を受けました。 聖パウロはキリスト者たちの間で互いに存在する愛を共同体の確かな安全性とします。 「小さい者が一人でも滅びることは、神の御心ではない」と言ったイエスは自分の教会の未来を支える為に、自分の弟子たちに守るべき指示を与えます。

    旧約の神もイエスも聖パウロも、自分が言った言葉には誰も従わないことを良く知っています。 確かにイスラエルの民は神の掟を見捨て続けています。 イエスの弟子たちと信者たちの共同体は、絶えず互いにいがみ合います。 激しい対立や支配者の不正、また勢力争い、破門などが何世紀にも渡って教会の歴史を汚しています。 争いに直面する時、今日の全ての朗読が私たちに忍耐と憐れみを要求しています。 兄弟的に仲直りをするには、勇気と親切さ、そして謙遜とお互いの理解が必要です。 愛の雰囲気がなければ中々赦し会うことが出来ません。 もし、相手が頑なで聞くことを拒むなら、彼を神の憐れみに委ねることしか出来ません。 しかし、私たちが全てを神に任せても、私たちから離れた兄弟を愛し続けなければなりません。 何故なら、私たちに自分の敵を愛するようにとキリストが教えたからです。

    私たちは兄弟たちの番人です。 「あなたの兄弟に何をしているのですか」(参照:創4,9)と、イエスは私たち一人ひとりに尋ねています。 和解する可能性の為に、私たちに苦しみを与えた人と実際に出会う前に、その人の為に祈る必要性があります。 一人で祈ることよりも何人かで祈る方が良いと勧められています。 聖霊によって支えられているこの祈りは、いつも祈る人の内に愛と謙遜で満たされた雰囲気を生み出します。 無理に出会いに行かなくても、祈りは敵対し争っている人の心に神の平和を与えます。

    罪は共同体を分裂させますが、祈りは共同体の一致を強めます。 もし、争っている二〜三人のキリスト者がイエスの名によって集まるなら、必ずイエス自身が彼らと共におられるのです。 ですから、私たちの全ての喧嘩、争い、意見の相違は祈りによって支えられるべきです。 祈りは聖霊の一つの賜物として、平和と一致と和解の実りを豊かに与えます。 他人を批判したり、彼らと論争するよりも、彼らの為に祈り、可能ならば出来るだけ彼らと一緒に祈ることに協力しましょう。 このようにするなら私たちは「律法を全うしている」即ち愛の完成に辿り着いています、と聖パウロが断言します。

    教会は救いの秘跡であります。 私たちの間に主が結び合った繋がりを守るように、イエスは願っています。 聖霊によって強められているこの繋がりは、私たちを神と他の人々とを一致させます。 またこの繋がりは、救いを与えるキリストの内に、私たちを共同体として集めます。 と言うのは、争いがキリスト者の共同体を分裂するとき、実は彼らは「救いの状態」に置かれています。 何故なら、いがみ合う兄弟たちを救う必要性があるからです。 ご自分の受難と復活によって、イエスは私たちに救いの力を与えて下さいました。 危機の時、私たちは共同体の平和と一致を守る為に、全ての可能性を探し確かめなければなりません。 イエスが提案する救いを受け止める為に、柔和と謙遜の態度が要求されています。 確かにキリスト者の共同体が滅びないように、私たちはキリストの心に宿っている思いやりや愛情を持ち、それを表すことが必要です。

    いつも至る所で、私たちは互いの責任を持っています。 私たちの親切な生き方が、私たちの見張りの責任の土台となります。 私たちは信仰によって互いに結ばれています。 神に造られ、イエスに救われ、聖霊によって聖とされた私たちは、今日の福音が述べている勧めが真の平和を与えることを知っています。 この世は絶対にこのような平和を与えることが出来ません。 アーメン。



         十字架称賛A年    2014914日   グイノ・ジェラール神父

               民数記21,4-9  フィリピ2,6-11  ヨハネ3,13-17

    「十字架を持つことは何と言う素晴らしいことでしょう。 十字架を持っている人は宝物を手に入れた人だ」とクレタ島の聖アンドレが宣言しました。 およそ150年前、フランスのルルドで、十字架のしるしによって聖母マリアはベルナデッタ・スビルにご自分を啓示してから、彼女を神の愛の神秘の理解にまで導きました。 十字架のしるしは信仰を芽生えさせ、私たちを強める宗教的な教育のしるしです。

    “十字架称賛”は毎年祝っていますが、日曜日に当たるのは12年に一度です。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 私たちにとって、イエスの十字架と私たちに示されているイエスの愛との繋がりを結びつけることは、容易ではないと正直に認めましょう。 イエスは愛によって自分の命を捧げ、十字架によって私たちを救ってくださいました。 神が私たちに示された愛は無償の恵みであると同時に、イエスの言い表せない苦しみで満たされた悲劇的な出来事です。

    現代では十字架は、教会の中、墓地、家、首飾り、携帯電話のアクセサリー、或いはタトゥーとして至る所で見ることが出来ます。 迷信を信じる人にとっては、十字架は安全と幸福をもたらすお守りですが、私たちにとっては、十字架は死に対する「命の勝利」の歴然たるしるしです。 十字架は拷問と死を与える道具であることを、私たちは決して忘れてはいけません。 そういう理由で、今日のミサ祭儀を通して、現在でも世界の中で迫害され、拷問されて苦しみに砕かれている人々を思い起こしましょう。 特に、彼らに忍耐と悪からの救いが与えられるように、主イエスに願いましょう。

    「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。 今日、私たちは悪のあらゆる形に打ち勝った神の愛を祝っています。 そういう訳で、イエスの十字架を褒め称えることは相応しいことです。 悪は愛と敵対しているので、愛だけがその悪を滅ぼすことが出来ます。 十字架は救いのしるしであり、祝福のしるしでもあります。 従って、十字架のしるしを切る時、私たち自身がキリストによって、キリストと共に「救いのしるし」となる為に、キリストの受難と一致していることを宣言します。  この意味で私たちは、しばしばキリストの受難の神秘を黙想しなければなりません。

    私たちに対して示された神の愛の偉大さをもう一度発見するために、ゴルゴタの十字架上につけられたイエスを仰ぎ見るようにと、今日の典礼が私たちを招いています。 昔モーセが荒れ野で青銅の蛇を掲げ、毒蛇に噛まれた者が信頼のうちに旗印として、掲げられたこの蛇を見たすべての人が癒され命を保ちました。 同様に、完全に新しい命に生きる為に、また「完全に罪の傷から癒されるために、十字架につけられたキリストを仰ぎ見ましょう」と聖アウグスティヌスが何度も言いました。 ですから、十字架に上げられたイエスから癒しと永遠の命を受けるために、この十字架の足元に立っている母マリアと共に、信頼のうちにイエスをゆっくり仰ぎ見て、十字架の神秘を味わいましょう。

    永遠の命とは、私たちの心の中に注がれている神の無限の愛です。 私たちにイエスを与えることによって、神は私たちにすべてを与えて下さいました。 確かに、私たちは十字架につけられたメシアの弟子であり、特に神の憐み深い愛の証人でもあります。 神はご自分の子イエスの受難と死と復活によって、私たちを救われました。 そういう訳で、私たちはキリストの十字架に誇りを持ち、十字架が救いの保証であり、私たちに対する神の愛の証しですので、私たちは十字架を礼拝し称賛することを恥ずべきではありません。

    初代教会のキリスト者は、異邦人たちに十字架が与える「躓き」を隠しませんでした。 キリスト者が礼拝するイエスこそ、ゴルゴタの十字架につけられた人です。 しかし、このイエスこそ「ご自分の死によって死に打ち勝った」方であり、復活の朝によみがえった方でもあります。 地上から上げられたイエスは、ご自分の父なる神に喜ばしい聖なる捧げ物を捧げる為に、すべてを自分の方へ引き寄せます。 ですから、イエスが私たちをご自分の方へ益々引き寄せるように、そして愛の完成にまで私たちを導かれるように、揺るぎない信頼を持って願いましょう。 アーメン。



           年間第25主日A年       2014921日    グイノ・ジェラール神父

               イザヤ55,6-9    フィリピ1,20-2427   マタイ20,1-16

    他人と自分を比べる人は、あっと言う間に自分の心の中に、嫉妬や恨み、あるいは高慢や軽蔑が芽生えることを感じているのです。 世の初めからサタンは人間たちの間に「比較する」という毒をまき散らしました。 「あなたたちは神のようではないですから、禁じられたこの果物を食べなさい、そうしたらあなたたちは神のようになる」(創世記3章参照)と、サタンはアダムとエバの耳に囁きました。 この誘惑の最初の日から、あらゆる時代に渡って、サタンは自分の鋭い爪で全人類を握り潰す為に「比較」という罠を使っているのです。

    イエスのたとえ話は、この罠をはっきり示します。 「どうしてねたむのか、わたしはこの最後の者にもあなたと同じように与えてやりたいのです」と。 神が自分自身を人に惜しみなく与えるので、詰まらない値打ちのないものを決して与えないことを、イエスはたとえ話を通して説明しています。 神はありのままにご自分の持っているもの全てを与えられるからです。 しかし、神のぶどう園で働く為に、神の誘いに一人ひとりが自由に答えなければなりません。 神のぶどう園で働くことは、実に神と共にその神聖な命に与ることです。 確かにわざとショックを与えるこのたとえ話を通して、イエスは自分が捧げる命についても語っているのです。 父なる神と同じように、イエスは惜しみなくご自分の全てを与え尽くすのです。 預言者イザヤを通して、神は次の忠告をしました。 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」と。

    私たちはこのことを理解出来ないので、聖書に於いて、神は絶えず同じことを繰り返します。 「わたしの気前のよさをねたむのか」と。 妬み深い自分の長男と話し合う時、イエスは放蕩息子の父に同じ言葉を言わせます。 「子よ、私があなたの兄弟に示す愛を妬むのか。 お前はいつもわたしと一緒にいる。 わたしのものは全部お前のものだ。 だがお前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなっていたのに見つかったのだ。 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15,31-32参照)と。

    全ての預言者たちは、神の同じ呼びかけを人々の耳に聞かせました。 「神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよう。 主にたちかえるならば 主は憐れんで下さる。 私たちの神は豊かに赦して下さる」からと。 私たち一人ひとりに対して、神の愛はいつも完全に与えられているので、誰も他の人よりも多かったり少なかったりすることはありません。 確かに神の愛は、行った努力、或いはその人の功績に応じては与えられていません。 何故なら、神の愛は永遠で無償ですから、人間的な正義と公平を越えています。

    「わたしはこの最後の者にもあなたと同じように与えてやりたいのです。 わたしは悪霊に取りつかれたマグダラのマリアにも、同じように与えてやりたいのです。 わたしを否定するペトロにも、わたしの傍で十字架に付けられた強盗にも、そしてわたしを迫害するパウロにも、あなたと同じように与えてやりたいのです」とイエスは言い、 深い憐れみを持って今日のたとえ話を通してイエスは、神が完全な愛で全ての人を愛して下さることを理解させようとします。 私たちの人生の全ての時間に当たって、ぶどう園で働くように神は私たちに呼びかけます。 青年であろうと、大人であろうと、年配者であろうと皆が神の救いの業に協力するよう神は望んでいます。

    ですから、神に向かって「はい、分かりました。 ぶどう園で働きます。 ぶどう園で働いたら、あなたは私に何を与えて下さるのですか?」と言う人の数に、数えられないように気を付けましょう。 私たちが神の似姿に造られた理由は、神のように無償で全てを行うようにする為でした。 神の賜物は無償であり、私たちの行った努力には比例しません。 神の国では他の人との競争や張り合いがないので、無駄に他の人と自分を比較することを辞めましょう。 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10,8)とイエスは頼みました。 またイエスの次の言葉を口にして知恵のある者となりましょう。 「わたしどもは取るに足りない僕です。 しなければならないことをしただけです」(ルカ17,10)と。 アーメン。



          年間第26主日A年    2014928日    グイノ・ジェラール神父

                   エゼキエル18,25-28  フィリピ2,1-11  マタイ21,28-32

    私たち一人ひとりは「はい」と「いいえ」と言う今日の福音の二人の息子です。 ある日頼まれたことに対して私たちは口で「はい」と言いますが、しかし具体的には何もしていません。 他の日には、「いいえ」と言ってから、思い直して私たちは頼まれたことを行います。 聖パウロが言ったように、私たちの心は引き裂かれています。 「わたしは、自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7,15)と。

    現代では自分が誓った約束を守る人は少ないです。 人々の信頼を欺いている政治家たちの演説や過剰な宣伝報告、メディアの力を使ってある方向に誘導していこうとするニュース解説などを私たちは信用できません。 これこそ現代の社会的な悲劇です。 家庭生活においても同じ問題が現れます。 両親は子供たちが正直に話していないと疑っているし、また子供たちは両親に絶対的な信頼を示しません。

    今日の第二朗読を通して、私たちが神のみ旨を完全に行ったキリストを見て、真似るように聖パウロは誘います。 めいめい自分の事を考えるよりも、自分の傍にいる人々の事に気を配るようにと聖パウロは勧めています。 「ぶどう園へ行って働くことは」他の人々と出会うことです。 「ぶどう園へ行って働くことは」またそれは具体的な行いによって、この世界を前よりも良いものとすることです。 今日の福音は非常に簡単で、誰でも出来る物事を要求します。  預言者エゼキエルはそれらの物事を「恵みの業」と呼びます。 具体的には一つの微笑、一つの思いやりの動作、教会に来られない人の訪問や病気の人の見舞い、慰めと和解の言葉などです。

   「キリスト・イエスが抱いたと同じ思いを互いに心がけなさい」と聖パウロは忠告します。 預言者エゼキエルも同じことを勧めました。 「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。 彼は悔い改めて、自分の行った全ての背きから離れたのだから、必ず生きる。 死ぬことはない」と。

    私たちの過去の傷が深いものであっても、私たちの過ちと罪が重いものであっても、再び出発をする事や神と共に生まれ変わる可能性は私たちの手にあります。 それを私たちに納得させる為にイエスはわざと徴税人や娼婦たちの極めて重大な状況を提案します。 マリア・マグダレナ、ザアカイ、サマリアの女、マタイ、イエスの傍で十字架に付けられた犯罪人の回心を思い出しましょう。 彼らの生き方は、最初は神に「いいえ」と言い続け、中々回心出来ませんでした。 しかし、ある日、彼等の上に注がれたイエスの憐れみ深い眼差しは、彼らに「はい」と言う力を与えました。 そして直ぐに彼らの心は喜びと希望で満たされました。

    私たちの心には「はい」と「いいえ」と言う答えが混在していますので、呼びかけに対する私たちの反応は全く予知出来ないものです。 しかし神は私たちの生まれつき持っている弱さと変わりやすい心をよくご存知です。 その為に、不注意と我儘によって答えた「いいえ」を愛で満たされた「はい」に私たちが交換するよう、神は充分な時間を与えてくださいます。 人が新しい出発ができるように、神はいつも赦しと力をくださいます。 確かに、詩編905節が教えているように「私たちは草のように移ろいます」が神は絶対に変わりません。 そして、私たちが神と再び結ぶように、神の契約はいつも私たちの自由に任されています。

    よい心づもりを抱くことは充分ではないと、今日の福音が思い起こさせます。 フランスの諺が教えているように「地獄はよい心づもりと善意で飾られ、舗装されています」。 また、急いで人を判断しないように今日の福音は勧めています。 なぜなら、人は決定的に悪い者や罪びとではないからです。 神は全ての人の救いを望まれますので、自分自身を危険な状態に置かれた人を助ける為に、全ての可能性を探し求めるに違いありません。

    ですから、神のみ旨を行うことを謙遜に決めましょう。 神のみ旨を行うこと、それは「神の業」を実現することで、神の業とは「神がお遣わしになった者を信じることです」(ヨハネ6,29)とイエスは教えました。 神の業とは、また神の言葉を心に留め、それを実行することです。 更に神の業、それは神の揺るぎない愛により頼みながら、神の言葉によって回心する事です。 ですから、天において行われているのと同じように、私たちの内に神のみ旨が行われますように、聖霊の力と教え導きを願いましょう。  アーメン。



        年間第27主日 A年     2014103      グイノ・ジェラール神父

                イザヤ5,1-7  フィリピ4,6-9   マタイ21,33-43

    聖書の中でぶどう畑は安らいだ気分や豊かさと平和の象徴です。 イスラエル人たちは、何不自由なく暮らすことによって楽しんでいることを現わすために、いつもぶどう畑について語ります。 次のように列王記が述べています。 「ソロモンの在世中は、国境はどこを見回しても平和であった。 ユダとイスラエルの人々は、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした」(列王記上5,4-5)。 「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」(ミカ4,3-4)と、預言者ミカが告げました。

    預言者たちを通して、神は「ご自分の愛するぶどう畑」や「全ての民に捧げられている正義と平和のしるし」として、いつもイスラエルの民について述べています。 しかし、預言者イザヤとイエスはぶどう畑のイメージを使う時、それを平和と安らぎの象徴には決してしません。 特にイザヤはぶどう畑を不幸のしるしとして、神の絶望と期待外れのシンボルを示します。 「わたしはぶどう畑の囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。 枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。 雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる」(参照第一朗読)と。

    カナの村で水をぶどう酒に変化させるという平和のしるしによって、イエスはご自分の使命を始めました。 悪霊を追い出し、病人を癒したりすることで、イエスは皆に平和と体の安らぎを与え続けました。 イエスは平和の使者になろうと望んでいました。 しかし、イスラエルの民の責任者たちがイエスを見捨て、且つ彼の死を決めたので、イエスは今日の譬え話によって、この責任者たちの上に下される神の怒りを告げます。 「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」とイエスは忠告します。 神が私たちに与えようとする平和に反抗する態度をイエスの譬え話は強く非難し裁きます。 耳を傾けることと回心することへの否定、委ねられた使命を実行することが出来ない無能さや、良い実を結ぶ能力のない態度など、これら全ての態度は神の計画を妨げています。

    神は私たちにご自分のぶどう畑を委ねました。 イエスはご自分の平和を与え、聖霊は私たちが豊かな実を結ぶために助けとなります。 私たちに与えられたものに対して、私たちは責任のある管理人です。 そういう訳で私たちは神がくださった賜物と持っているものをどのように使っているかを考える必要があります。 聖パウロは模範として、フィリピの共同体の信者たちを示します。 使徒パウロは、豊かな実を結んでいるぶどう畑として彼らを紹介しながら、彼らがこの道を歩み続けるように励ましています。

    ミサに与る度に、人間の労苦とぶどうの実りであるぶどう酒を捧げることによって、私たちは神が人間に与える平和と救いの計画を思い起こし記念します。 このぶどう酒は、永遠の平和の契約であり、私たちを神と一致させるぶどう酒は、キリストの血となるのです。 ここでイエスの譬え話の第二のテーマがあり、それは流される血、贖いのしるしのテーマです。 人々が頑固に否定をしても、神は必ずご自分の愛の計画を実現します。 神の救いの業は必ず成功します。 イエスの死と復活によって、また聖霊の力の内に神のぶどう畑は豊かな実を結び、そしていつか永遠の国の良いぶどう酒を私たちは味わうでしょう。

    ですから、キリスト者の責任を真面目に果たしましょう。 自分の回心のために努力することで、神がご自分の平和の賜物を注ぐ場所として、私たちの共同体を新たにしましょう。 キリストと結ばれて聖霊の交わりの中で、私たちは皆平和の働き手となりますように。 ですから、先ず信仰の兄弟姉妹と仲直りをし、そして神と急いで和解しましょう。 そうすれば私たちは、神の愛するぶどう畑になるに違いありません。 そして、キリストは聖霊の喜びの内に私たちに対する誇りを持つのです。 アーメン。



      年間第28主日A年   2141012日    グイノ・ジェラール神父

              イザヤ25,6-10  フィリピ4,12-14,19-20   マタイ22,1-14

    世を造られた時から神は人々を招かれています。 人々が食べるように、そしてご馳走になる物の内に喜びと楽しみを見出すようにと招いておられます。 預言者たちは「全ての人々に捧げられている壮大な宴会」のシンボルとして、人間と神との一致を紹介します。 「万軍の主は祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される」(イザヤ25,6)と預言者イザヤは宣言します。 イエスは今日のたとえ話の中で同じテーマを取り上げます。 すべての人は、誰でも、善人も悪人も皆、神の婚宴に招かれています。

    とても残念なことに、人々は昔から神の招きに応えない為に、色々の理由を見付けて言い訳をします。 私たちは毎日曜日にキリストの体で自分を養う為に、イエスの傍に集まるように全てのキリスト者は招かれています。 しかし実際にはどこの小教区でも、ただ二十パーセント程の人たちだけが神の誘いに応えるだけです。 日曜日のミサ祭儀によって、キリスト者たちは互いに出会い、キリストと一致することが出来、人生のすべての困難を乗り越える力を受けます。 自分の教会に集まることによって、キリスト者たちは罪と死に対するイエスの勝利を尊ぶ正しい雰囲気を作ります。 祝宴に与かる時に大切なことは、食事の豊かさや料理の質が良い事ではなく、招かれた人々の間にある雰囲気です。 そのために私たちが平和と喜びと分かち合いの世界に入るようにと、神は絶えず私たちを急き立てておられます。

    天の国は、神ご自身の平和と喜びの内に全ての人が互いに対話し、ふれ合い、繋ぎ合うことが出来る為の重大な場所です。 私たちが記念し祝うミサ祭儀は、神の国の目に見えるしるしです。 ですから自分自身をよく見て、自問しましょう。 私たちはどのようにミサに与かり、参加しているでしょうか。 今朝、私たちは習慣でミサに来ましたか、それとも信仰の兄弟姉妹と出会うためにここに来ましたか。 この兄弟姉妹と共にイエスを囲んでいるので、私たちは幸せでしょうか。 聖霊の交わりの内にイエス・キリストのうちにあって、イエスと一つの心、一つの体、一つの霊となっていることを知って、私たちは誇りを持っているでしょうか。

    今日のイエスのたとえ話の終わりの部分は、私たちを惑わせます。 全ての人が招かれているのに、なぜ追い出される人がいるのでしょうか。 特に婚礼の礼服を着ていない人は。 聖アウグスチヌスによると、聖パウロのコリントの教会への手紙を利用して「婚礼の礼服」は「生涯に示した愛」だと説明します。 なぜなら神と隣人への愛という絆の糸で、私たちは自分の婚礼の礼服を織り上げるからです。
    聖パウロの言葉に耳を傾けましょう。 「たとえ、人と天使たちの言葉を話しても、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する力を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていても、山を移すほどの深い信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。 また全財産を貧しい人々に施し、体を焼かれるために渡しても、愛がなければ、私に何も益がない」(参照1コリント13,1-3)と。

   雨と太陽の恵みはすべての人に与えられています。 善人も、悪人も神の救いに相応しい人です。 同様に神の賜物である洗礼は、全ての人が受けることが出来ます。 実に、洗礼の秘跡によって、私たちがキリストの栄光を衣として着て、キリストと一致して、イエスの神秘的な体となっています(ガラテ 3,26-28)。 そしてまた、神の愛と慈しみが祝いの日の礼服として私たちを覆うのです。 しかしこれらの礼服が「婚礼の礼服」に変化する為には、私たちは神と隣人への愛の掟を具体的に実践しなければなりません。

    ですから、永遠の婚礼に参加する保証を手に入れる為に、聖霊の助けと聖母マリアの執り成しによって、人との出会いの時も、ミサ祭儀に与かる時も、愛と憐れみを自分たちの身に付けましょう。 アーメン。


           年間第29主日A年   20141019日   グイノ・ジェラール神父

              イザヤ45,14-6  1テサロニケ1,1-5  マタイ22,15-21

    イエスを殺すと決めた人たちは、キリストと出会ってすぐ彼にお世辞を言い始めます。 「あなたは真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方です。 あなたが人々を分け隔てなさらないからです」。 そう言ってから、彼ら偽善者たちはイエスに罠をかけます。 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。 適っていないでしょうか」。 イエスは彼らを「偽善者よ」と叱責しながら、彼らの悪巧みをはっきり見せます。  イエスは自分の反抗者たちの裏表のある態度を避けて、彼らに霊的な教えを与えようとします。 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。

    イエスの敵たちは結局自分の罠に陥りました。 なぜなら、彼らは自分のポケットから皇帝の肖像を表している銀貨を出したからです。 そうすることで、彼らがこのお金を使っている証拠となりました。 イエスは賢いやり方で彼らを反省させ、そして彼らが持ってきた問題を彼らに返します。 イエスに示された銀貨に「生きている神として」の皇帝の肖像が刻まれています。 しかし、神だけが神であり、人間が神の似姿に造られているから値打ちがあるのです。 神は深い愛を持って無償で私たちにすべてを与え、私たちに与えられた命に対して、決して税金を要求されません。 むしろイエスにおいて、神は私たちの贖いの身代金を高く買いました。 「わたしは仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10,45)とイエス自身が断言します。 確かに、父なる神の目には御子イエスの命は尊いですが、イエスの敵にとっては値打ちがないらしいです。 何故なら、彼らはデナリオン銀貨30枚のためにイエスを殺したからです。

    ローマの皇帝がいくら力強い者であっても神ではないと、イエスはファリサイ派の人々に思い起こさせます。 「皇帝のものは皇帝に」の意味とは、自分の国の社会的な生活に参加する国民として私たちは権利と義務を持っています。 同様に「神のものは神に」の意味とは、私たちの命は神に属し、神の民のメンバーとして旧約と新約の聖書で示された権利と義務を持っています。 私たちは心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして神を愛し、神だけを礼拝しなければなりません。  ただ神だけが絶対的であり、全てのものは相対的なものです。

    神は、この大切なことをペルシャのキュロス王に思い起こさせます。 「わたしが主、ほかにはいない。 わたしをおいて神はない。 わたしはあなたに力を与えたが、あなたはわたしを知らなかった。 にもかかわらず、それは日の昇るところから日の沈むところまで、人々はわたしのほかは、すべてむなしいと知るためである。 わたしが主、ほかにはいない。」(参照:イザヤ45,5-6)と。 キュロス王とローマの皇帝は権力者であっても、決して生ける神々ではありません。 むしろ彼らは、神の意志を行う必要な道具として神の手の中に置かれています。

    ですから自問しましょう。 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というキリストの言葉の意味の理解を私たちは間違って、人のための時(即ち過ぎゆく一週間)と、神の時(即ち日曜日のミサ)という二つの時を、自分の人生の中に作っているのではないでしょうか。 しかし、私たちは絶えず他人に向かって神の眼差しのもとで生きていかなければなりません。 確かに、私たちは日常生活のすべての瞬間のうちに神を見つけるように招かれています。 私たちは次の事をよく知っています。 神との関係は人間関係を通して実現されています。 何故なら、隣人に対して行っている善悪は、神ご自身にしたことですから。

    「あなたは真実な方で神への真理の道を教えています」と、ファリサイ派の人々はイエスに言いますが、ファリサイ派の人々はそれを信じていません。 神への真の道は必ず人々の関係のうちに開かれています。  お互いの関係と絆が真実である度合に応じて、この繋がりは神への道となるのです。 そのためにイエスは自分について宣言しました。 「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14,6)。 偽善と偽りを避けて、ありのままにお互いを愛し合いましょう。 憐みと赦しの具体的な行いによって、私たちが神の似姿に造られたことをはっきり示しましょう。 神の眼差しのもとでイエスに従って天の国に導く命と真理の道を一緒に歩み続けましょう。 アーメン。



       年間第30主日 A年     20141026日   グイノ・ジェラール神父

             出エジプト22,20-25 1テサロニケ1,5-10  マタイ22,33-40

    イエスにとって、二つの愛がありません。 つまり、神への愛と隣人への愛はただ一つの愛です。 人が真心から神を愛しているかどうかを知るには、その人の人生が愛、正義、赦しに導かれているのか、それともみ、軽蔑、赦しの否定に根を下ろしているのかを確かめると判ります。 私たちは神と人々の間で、どちらか一方だけを選ぶことが出来ません。 また、神への愛と隣人への愛は、違っている愛ではないので、その間で競争はありません。 聖ヨハネが書いたように、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(1ヨハネ4,20)。

   イエスは同じレベルに神と隣人、同一の次元で神への愛と隣人への愛をおくのです。最後の審判のたとえ話の中で、神はご自身を飢えている人、裸の人、病人、外国人、受刑者と同一視します。 私たちが人々にした事は神ご自身にした事だと、イエスは教えています(参照:マタイ25,46)。 イエスにとっては、神を愛する事と隣人を愛する事は同じ事です。 故に、この二つの掟はただ一つの掟です。

    吐き気をもよおす様な臭いのする傷のある病人の世話をしているシスターを見て、ある新聞記者は小さな声で「はっきり言って、1千万ドルを貰っても、私は決してその仕事をしません」と彼女に言いました。 シスターは単純に「私も」と言って、「私はお金の為ではなく、死を迎えようとしている人への愛の為にその世話をしています」と答えました。 一方では耐えられない臭いのために全ての人がその病人を避けていましたが、他方ではシスターは彼の世話をしながら神を愛する努力をしていました。

    私たちの信仰は「愛しなさい」というこの言葉に要約されます。キリスト者が愛する理由は、愛する為に自分が愛のうちに神によって造られたことを知っていて、またその愛は永遠に続くことを知っているからです。 イエスが人間になった理由は、その愛の広さを思い起こす為です。 神の愛で満たされて、イエスはいつも父なる神と向き合っているので、イエスは絶えず人々の必要性に気を配っています。 父なる神の愛のためにイエスは病人を癒し、悪霊を追い出し、また軽蔑された人々に人間的な尊敬を取り戻します。 神は人間を非常に尊敬していますので、イエスは私たちと同じようになりました。

    十字架上で手を広げて死んだキリストは、全人類を受け取って全てをみ取りました。今から後、人間は誰であろうとキリストの肉と血に与る者です。 同時に全ての人は、私たちの肉の肉、骨の骨です(参照:創世記2,23)。 私たちの救いの為に、イエスは神への私たちの愛を人間らしくすると同時に、隣人への私たちの愛を神化し、神に示すべき愛のレベルにおきました。 私たちは疑いもなくこの偉大な神秘について、度々考えざるを得ません。

    従って人間的な問題に敏感である人、ボランティア活動をする人、或いは愛徳の業に奉仕する人は、自分の活動の内に神の現存を見つけそれを示すべきです。 同時に、祈ること、神の前で生きることが簡単に出来る人は、他の人の奉仕の為に具体的に何かをしなければなりません。

    愛する為に私たちは神によって造られました。 しかし、私たちの間に数えきれない喧嘩、なかなか消えにくい妬みがあります。 ですから、どこの小教区でもキリスト者は互いに苦しめ合い、傷付け合っています。 また両親が自分の利益だけ、或いは自分の個人的な楽しみだけを目指しているので、どれ程の家庭が分裂し、破壊し、そしてどれ程の子供たちが混乱しているでしょうか。 自分自身のように人を愛することをイエスは要求します。 ですから、私たちは神と他の人々の為に生きている事実の内に、自分の喜びを見つけることを学ばなければなりません。 言い換えれば、どれほど神が私たちを愛し、私たちの幸福を望んでいるかを知っているならば、この幸せが隣人に対する愛で満たされた本当の繋がりなしでは、実現されないことをも知っています。 ですから、神の眼差しのもとで愛し合う兄弟姉妹として生きる為に、私たちの心に注がれた聖霊の愛が助けとなりますように。 アーメン。



         死者の日 A年    2014112日   グイノ・ジェラ−ル神父

             知恵の書3,1-6,9  ローマ8,31-35,37-39  ヨハネ6,37-40

    今日、諸聖人を祝い、死者のために祈る私たちは、彼らが皆、天の喜びの内に、愛の完成に導かれ、神の栄光に与かれるように願っています。 神は決して人生を終わった人の報いではありません。 神は私たちの人生の初めから一緒におられます。 神の現存は神秘と忠実でありますが、決して人を圧迫する現存ではありません。

   昔アブラハムに言われたように、神は私たちにも「わたしの前に、私の現存の内に歩みなさい、そして完全な者になりなさい」(参照:創世記17,1)と言われます。 事実、審判の日に、神は私たちの犯した数えきれない罪よりも、どのように私たちが生きようとしたかを裁くでしょう。 いのちは神が私たちに与えて下さった貴重な賜物です。  タレントのたとえ話の主人と同様に、神は審判の日に私たちに委ねられた命のタレントをどのように使ったかについて尋ねるでしょう。 そのタレントの成果を充分に出したでしょうか。 それとも、そのタレントを自分の高慢や利己主義や自己愛の土に埋めてしまってはいないでしょうか。

    まだ、天の喜びを味わっていない全ての死者のために私たちは祈ります。 彼らを清めさせ、聖とする神の愛の業が彼等の内に完成されますように。 「知恵の書」が教えているように「主に寄り頼む人は『救いの計画』が真実であることを悟り、信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる」(知恵の書3,9)からです。

    死者は精一杯生きている人々の周りをうろつく幽霊、人々を守る霊、あるいは呪いをかける亡霊ではありません。 全ての死者は神の手の中に置かれ、守られています(参照:知恵の書3,1)。 死者に表される尊敬や死者を大切にする思い出は、決して亡くなった人の死体や遺骨に結びついていません。 死者が本当に神の手の中に置かれ、守られているからこそ、私たちは彼らに尊敬と親しい記憶を持ち続けるのです。 死者のために祈ることで、私たちは受けた貴重な「命の賜物」を神に感謝します。 ちなみに、私たちが愛した人々、また私たちを愛した人々の死を通して、教会は「復活の神秘」を祝っています。

    愛によって主イエスは私たちのために死に、復活されたので、私たちがお互いに示し合う愛のお蔭で、復活の恵みに与かることは確かであり、またそれは私たちの大切な希望です。 人を愛することは、結局その人に「あなたが死ぬことのないように強く望みます」と言うことです。 神は神であるので、私たちの死を望まれないし、私たちを愛し続けて下さいます。 神の愛はこの地上の生活だけに限られていません。 神は永遠に私たちを愛してくださいます。 ですから、神の似姿に造られた私たちも永遠に愛するように召されています。 「神を全身全霊で愛し、隣人を自分のように愛する」と言うイエスの掟の重大さはここにあります。 神も隣人も無償で永遠に愛することが、私たちの人生の根本目的です。 「わたしの愛に留まりなさい」(ヨハネ15,9)とイエスは要求します。 「愛は決して滅びない」(1コリント13,8)と聖パウロは確信を持って教えています。

   キリスト者である私たちは永遠に生きるために、また永遠に愛するためにキリストの御体と御血で自分自身を養います。 なぜならイエスは次のように約束したからです。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させます」(ヨハネ6,54)と。 私たちの内に永遠の命と愛を強める為に、死を迎えたイエスは、ご自分の記念写真を残したのではなく、ご自身を「糧として」与えました。

   ですから、私たちの内にあるキリストの現存を生きるように努力しましょう。 そして、諸聖人と天使たちの祈りに結ばれて、神が亡くなった兄弟姉妹たちをご自分の愛の交わりに受け入れて下さいますように神に願いましょう。 彼らは「神の恵みと神の親しい交わりとを保ちながら死にましたが、まだ完全に清められていないので」(カトリック教会のカテキズム1030)私たちは死者の日にあたって、彼らの為に「キリストのいけにえ」と共に「教会の祈り」の助けを捧げています。

   更に、「わたしが来たのは、あなたがたが命を受けるため、しかも豊かに受けるためだ」(ヨハネ10,10)と、イエスは約束なさいましたので、今日のミサ祭儀に与かることによって、キリストに最も近い者となりましょう。 アーメン。



        ラテラノ教会の献堂A年  2014119日  グイノ・ジェラール神父

         エゼキエル47,1-28-912  1コリント3,9-1116-17  ヨハネ2,13-22

    ラテラノ教会は世界で一番古いキリスト教的な建物です。 320年にコンスタンチノス皇帝によって公に聖別された一番目の教会として、またローマの司教であるすべての教皇の大聖堂としてラテラノ教会は認められています。 更に、最初の大聖堂であるラテラノ教会は「全ての教会の頭」であり「全ての教会の母」と呼ばれています。 そういう訳で、ラテラノ教会の献堂記念を祝う度に、キリスト者たちは世界のすべての教会を祝っています。

   大きくても小さくても教会は「神の家」であり、そこに集まって来るキリスト者たちは、愛で満たされた神の現存の内にあり、祈り、神の言葉を聞き、黙想し、自分の信仰を強め、養います。 そして「二人また三人がイエスの名によって集まるところには、イエスもその中にいる」(マタイ18,20)と言うイエスの言葉を事実として実感し、また固く信じています。 教会は決して倉庫や待合室ではありません。 神の家である教会は、集まった信者たちの祈りと信仰を支えなければならない聖なる場所です。 そのために時代の移り変わりに沿ってキリスト者たちは、出来るだけ見事な礼拝堂や壮麗さのある大聖堂や芸術作品のように見える様々な教会を作りました。 現代のスペインでは、まだ完成されていないバルセロナの「サグラダ・ファミリア(聖家族)」の大聖堂の建築は「一緒に祈ること、一緒に神を探し求めることの美しさ」を世界の人々に現しています。 しかし、小さなチャペルの静けさのうちに「キリストの教会となって」祈っている十人位の信者を見ることも真に喜ばしい、とても美しい光景です。

  さて、預言者エゼキエルは祭司であり、彼は紀元前587年にイスラエルの敵であるバビロン人の侵略とエルサレムの神殿の破壊を自分の目で見ました。 幻を通して神は、エゼキエルに「理想的な神殿の姿」を見せます。 その神殿の中では泉が湧き出て、その水が流れると命の豊かさをもたらします。 カトリック教会の教父たちは、命を与えるこの泉を通して、洗礼の秘跡と恵みの泉であるキリストの突き刺された脇腹を見分けています。

    昔、預言者エゼキエルが見た神殿の破壊と同じように、聖ヨハネは紀元後70年にローマ人によるエルサレムの攻略と神殿の破壊を目撃します。 この神殿は二度と建て直すことが出来ませんでした。 そこで聖ヨハネはキリストが「神の真の神殿である」ことを私たちに思い起こさせて説明します。

   コリントの教会の人々に手紙を出した使徒パウロは、彼らに共同体として「信仰によってあなたがたはキリストの体の部分となったので、あなたがたは、自分が神の神殿である」と説明し、そして使徒パウロは個人的に「知らないのですか。 あなたの体は、聖霊が宿ってくださる神殿である…神の神殿は聖なるものであり、あなたがたはその神殿なのです。」(1コリント6,193,17」と詳しく話します。 それを強く主張する為に使徒パウロは、「わたしを愛する人は、わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14,23)と言うイエスの言葉を土台とします。

    ロマン様式の大聖堂、あるいはゴシック様式の大聖堂のように私たちが美しくなる為に、自分の内に三位一体の神の現存を持っています。 ですから、私たちが周りの人々に天国への道を教える為に、私たちの人生は天を示す大聖堂の屋根の上の尖塔のように神に向かって伸びていることが肝心です。 信じる事と自分の内にある神の現存を体験する事によって、私たちはまるで大聖堂のようになった自分の体に与えるべき尊敬を理解します。 従って、神が与え、清め、聖とし、そしていつかご自分の栄光の内に復活させられる私たちは、その体のために神に感謝を捧げることは正しいことです。

   ですから、キリストに倣って神の家を思う熱意が、私たちを食い尽くしますように。  私たちが集まるこの武庫之荘教会が、現実に、神との本当の出会いと祈りの場となりますように。 武庫之荘教会に来るのはカトリック時報を読む為や携帯電話でメッセージを送る為、あるいは自分の傍に座っている人々と討議する為ではありません。 顔と顔を合わせて、私たちを救い愛する神と親密に出会うために、今日、私たちは武庫之荘教会に集まりました。 神に背を向ける私たちの態度によって、この場所を度々「商売の家」(ヨハネ2,16)或いは、「強盗の巣」(マタイ21,13)にしてしまいます。

   ですから、ラテラノ教会の献堂記念に当たって、私たちの教会を聖なる場所として再発見しますように。 ここで神は私たちにご自分の栄光と揺るぎない愛を与えて下さるからです。 私たちは皆、どこかの教会で神の子供となりました、また、どこかの教会で父なる神の家に帰るでしょう。 ですから、今の自分の教会に対して誇りを持ちましょう。 そしてこの教会を通して私たちが受けた数えきれない恵みの故に神に感謝しましょう。 アーメン。



        年間第33主日A年   20141116日   グイノ・ジェラール神父

          箴言31,10-1319-2030-31  1テサロニケ5,1-6  マタイ25,14-30

    「盗人が夜やって来るように、主の日は来ます」と聖パウロが私たちに忠告します。 声を揃えてすべての専門家たちが、いつかこの世が終わると主張します。 しかし、この世の終わりについて考える時、私たちはそれを遠い未来のことだと思い込んでいます。 同様に「主の日」と「審判の日」のことも他の時代の人の為にあると思いがちです。 それでも毎年11月になると教会は必ず世の終わりが近づいていることと、それに対して皆が心構えをし、目覚めるようにと警告します。 とにかく、世の終わりは私たち一人ひとりの人生の終わりです。 今日のイエスのたとえ話、そして聖パウロの手紙も箴言の書も、私たちが目覚めていて明白な人として、心構えをしている人であるように強く勧めています。

    キリストの時代には1タラントンは26キログラムの純銀の塊で、その値打ちは計り知れないです。 二週間前に私が教えたように、タラントンは神が私たちに与えてくださった命の貴重な賜物です。 タラントンのたとえ話の主人と同様に、神は審判の日に私たちに委ねられた命のタラントンをどのように使ったかについて尋ねるでしょう。 私たちは、そのタラントンの成果を充分に出したでしょうか。 それとも、そのタラントンを自分の高慢や利己主義や自己愛の土に埋めてしまってはいないでしょうか。

     神は私たちにすべてを与えました。 同時に、私たちが受けたものの成果を速やかに出すために、神は役に立つ勧めを下さっています。 私たちは神によって自由な人間として造られたので、神が私たちに示す信頼を承諾することによって、自分の人生をとても素晴らしいものとすることが出来ます。 反対に、私たちは恐れと不信感を抱くことによって、一度も自分の評判を危うくせずに、どんな事件にも巻き込まれずに生きることも出来ます。 実に私たちの周りにどれほど多くの人が生涯に渡って、恐れの反応を持っているでしょうか。 彼らは現在、未来、他人、自分の持ち物、体の健康、神などに対して絶えず恐れを持っています。 そのために、彼らは神からいただいた賜物の成果を出すことが出来ずにいるのです。

    よくある事の一つに、病気になった時、人は自分に閉じこもってお見舞いに来る人を避けて、すべてに対して不信感を現します。 これらのしるしは人が健康でないことを表しています。 現代の世界は病気です。 この時代は絶えず「各人は自分のためにある」という暮らし方を作りあげてしまいました。 「私の携帯電話、私のiPad、私の車」などと言い、現代の多くの人たちは不信感を持っているので、孤独な生活をし、結婚生活を拒み、危険を冒して冒険することが全くありません。 むしろ健康な人は、人との出会い、新しい発見、危険を冒して冒険する勇気を持っています。 そして、未来に対して様々なビジョンと夢を持ち、それに対して計画します。

    私たちは絶対に自分の為に生きてはいけません。 確かに私たちの仕事は、自分の為に役に立ちます、またその仕事は家族を養い、且つこの世界にもより高い値打ちを与えます。 このように考えると、子供たちは自分が賢くなる為にだけ学校で勉強しません。 受けた学校教育によって、大勢の仲間と共に生きることを学び、子供たちが大人になってから、より人間的で、より良い世界を作りあげます。

    従って、信仰を持っている私たちは決して自分に引きこもることなく、また、神からいただいた賜物を人に隠すことをしてはいけません。 恐れずに、信仰生活をすればするほど、私たちは光の子となります。 「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。 私たちは、夜にも暗闇にも属していません」と聖パウロは今日私たちに思い起こさせました。

    神が愛であると信じることは、私たちを麻痺させ、豊かにさせない恐れから救い上げます。 聖書においては「恐れることはない」という忠告が365回、即ち毎日1回宣言されています。  恐れから信仰へ移ることは私たちの人生の最も大切な目標です。 ですから、神の助けで私たちの人生を今より美しく、恵みで満たされたものとしましょう。 アーメン。



      王であるキリスト A年  20141123日  グイノ・ジェラール神父

       エゼキエル34,11-1215-17  1コリント15,20-2628  マタイ25,31-46

    今週で典礼歴A年が終わります。 来週からは、イエスの誕生を準備する為に私たちは待降節に入ります。 毎年キリストに対する同じ出来事を祝いますが、神が人間と一致して作る歴史は進歩し続けます。 この歴史が完成の日に近づき、いつか必ず最後の日が来ます。

    死んでも命は続きます。 しかし今度は永遠に続くと言う事実を忘れている人が多いです。 ですから、彼らは自分の永遠の運命を準備するのを怠ります。 招待状なしで、適当な礼服を着ずに、誰も天の国に入ることは出来ません。 私たちは信仰を宣言する度に、「生者と死者を裁くために」栄光の王としてキリストが来られることを宣言します。

   キリストの裁きは明白なはっきりとした知識を与え、言い訳が許されていない光の中に人を置くのです。 神の前に置かれた人にとっては、自分自身についての真理を誰か他の人が表明することは必要ではありません。 その時、人は自分自身の審判者となるからです。 審判の時、私たちは一瞬のうちに自分の人生を詳細に見るので、あっと言う間に自分がキリストの右に集まっている羊の群れに数えられているのか、あるいは数えられていないのかを悟るでしょう。

   実を言えば、私たちについての裁きは既に宣言されています。 なぜなら、永遠の運命がこの世での今の生き方に掛かっていて、決められるからです。 今あなたが、最も小さな人にしたことは、キリストにしたこととなります。ですから、今あなたは、飢え渇いている人に食べさせ飲ませるのか、あるいはその人を無視するかの選びです。 従って今、あなたが行った全ての選択が既に裁かれているのです。

   確かに単純な動作や行いについて私たちは裁かれるでしょう。 例えば、泣いている赤ちゃんをあやす為に、真夜中に起きる事。 または、座りたい、あるいは立ち上がりたい年寄を助ける事。 災害によって全てを失った人々を慰め、力づける事。 教会の中で活動の責任を承諾する事。 あるいは仕事の場で困っている仲間を助ける事など。 しかしよく気を付けましょう。 もしあなたがある浮浪者に金銭を与えて、そのことが天国の自分の良い場所を準備したと思うなら、それは大きな間違いです。 あなたが出会っていたのは、キリストではなく、よい施しを行っている自分自身を見、その自分自身と出会っていたのです。 ところが実生活の中であなたが出会いたくない信者の顔をイエスが借りています。 また、あなたが密かに隣の人の幸せを妬んでいるならイエスはその人の顔を借りています。 イエスが実際にあなたのすぐ傍に立っていたのに、あなたはそれを見分けることが出来ませんでした。 あなたは、いつそれを見分けることが出来るでしょうか? イエスは人が待ち望まない所でいつも私たちを待っておられます。 ですから、心配せずに、自然体で単純に愛しましょう。 イエスが私たちの心に働きかけて下さるので、私たちが知らず知らずのうちに無償で行った愛の業はすべて安全な永遠を作りだします。

   最後の日に私たちは自分の審判者だけではなく自分のあがない主とも出会うのです。 正しい、誠実な審判者のキリストは慈しみ深い贖い主であり、憐れみ深い救い主でもあります。 私たちがこの世を去る時に、イエスが私たちの心の中にほんの少しの回心と痛悔の涙を見付けるなら、疑いなく「さあ、急いで、あなたの主人である私の喜びに入りなさい」(参照:マタイ25,21)と断言されるでしょう。 シロアンと言うアトスの山の聖なる修道者は私たちに「地獄に置かれても、絶対に絶望してはならない」と言う面食らわせる勧めを残しました。 ある意味で、シロアンは聖ヨハネが言われたことを繰り返します。 それは「神の前に私たちは安心できます。心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。  神はわたしたちの心よりも偉大です」(参照:1ヨハネ319-20)。 神がどうしても全ての人を救いたいので、もしも神が自分の傍にご自分の全ての子供が集まっていないと見るなら、一体神は完全に幸せになるでしょうか。 私たちは神が何をなさるかは、全く分かりません。 しかし一つ注意しておきたいのは、神はとても慈しみ深い方なので「私たちが回心しなくてもいい」などということを信じてしまわないように気を付けましょう。 悔い改める態度や罪の告白や回心のしるし無しでは、決して神の赦しと救いはありません。

   栄光に輝いて再び来られる正しい審判者キリストは、預言者エゼキエルが紹介した良き牧者ですから、おそれずに、揺るぎない信頼を持ってイエスを仰ぎ見ましょう。 愛の完成に無事に辿り着くためにイエスに「回心の恵みを」絶えず願いましょう。 預言者マラキが教えているように、イエスは「正義の太陽ですから、その光線の内に癒しがあります」(参照:マラキ3,20)。

   私たちがキリストの弟子として、また全人類の恩人と兄弟として生きることが出来る為に、すぐにやって来る新しい待降節の恵みが大きな助けとなりますように。 そうすれば、私たちは審判の日に何も恐れることがないでしょう。  アーメン。



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